OmarKhayyám
オマル・ハイヤームについて
11世紀ペルシアの数学者・天文学者・詩人。1040年頃生まれ、1123年没。
ペルシアのホラサン川の都城ネイシャプールの近くで生まれる。自然科学に関する業績では、三次方程式の解法に関する研究、天文学に関する業績では、後のグレゴリイ暦にもまさるほどのジャラリイ暦の作成が特に有名である。
19世紀に彼の詩集『ルバイヤート』がイギリスの詩人エドワード・フィッツジェラルドによって翻訳されて以来、詩人として世界中にその名が知れわたるようになる。
酒をたたえ、現世の快楽を詠んだ無神論的なその作品は19世紀末のヨーロッパで流行することとなる。「ルバイヤート」はペルシア語で「四行詩集」を意味する。(複数形。単数形は「ルバーイイ」)。本来は一般名詞だが、欧州や日本では「ルバイヤート」はハイヤームの詩集を指す固有名詞となっている。
RyosakuOgawa
ペルシャ語詩集『ルバイヤート』
翻訳 小川亮作
●英文学を志した亮作
小川亮作は、父全一、母ヒサの8人兄弟の長男として1910(明治43)年11月20日に、海老江で生まれました。亮作の父は、黒埼の小学校に教員として勤務したこともあります。また、1927(昭和2)年ころ、海老江で球根栽培が行われるようになった礎を作った一人でもありました。亮作は岩船郡金屋村立金屋尋常小学校を卒業後、旧制新潟縣立(県立)村上中学校(現村上高校)へ進みました。学業成績は優秀で、抜群でした。特に、文章を書くことを好むとともに、英語を得意とし、英文学を志したこともあったといいます。
●ロシア語、ペルシャ語を勉強
亮作は、1929(昭和4)年に当時満州国のハルビン市にあった日露協会学校(後の満州国立大学ハルビン学院)に奨学生として進学し、ロシア語を本格的に勉強しました。1932(昭和7)年、さらに力を付けるため、外務省の外交官試験を受け、合格しています。その後、ペルシャ(現イラン)のテヘランで3か年の外交官生活を送りました。この時、電気や水道もない生活の中で、ペルシャ語を一生懸命に勉強しました。1935(昭和10)年に帰国し、外務省に勤務した後、1937(昭和12)年には外交官としてアフガニスタンに大使館付書記官という役職で赴いています。1941(昭和16)年に帰国し、外務省アジア局に勤務します。そして、千葉県松戸市に居を構えました。
●詩集『ルバイヤート』との出会い
亮作は、テヘランにいたころペルシャ語の詩集『ルバイヤート』に出会い、詩の美しい調べと内容の奥深さに感動します。
『ルバイヤート』は、11世紀にオマル・ハイヤームというペルシャの詩人によって歌われたもので、四行詩集のことを言います。人生の挫折や苦しみ、希望やあこがれを四行の文で表現しています。19世紀になると、英語訳によって広く世界中に愛読されるようになりました。ルバイヤートの詩に込められた人生への深い思いが多くの人々の心に響いたものと思われます。明治時代には、日本にもルバイヤートの詩の一部が紹介されています。
亮作は、ルバイヤートの詩のすばらしさを多くの日本人に伝えたいと、ルバイヤートの翻訳を強く願いました。亮作の翻訳は、太平洋戦争後から本格的に行われたそうです。
ペルシャ語の詩を小川亮作が訳したもの(岩波文庫より)
●岩波文庫より出版、版を重ねる
亮作は、原典ペルシャ語の詩集に載っている詩をすべて日本語に翻訳しました。ペルシャ語で書かれた美しい調子をできるだけ生かし、日本語で表現しようと努力しています。また、当時の詩は古文調の言い回しが中心でしたが、古文調ではなく、分かりやすい現代語訳として翻訳されています。
小川訳『ルバイヤート』は、1949(昭和24)年に岩波書店から岩波文庫の一冊として出版され、現在でも版を重ねています。本の最後の方に、著者オマル・ハイヤームの生涯や功績、詩の内容の解説が載っていますが、これも亮作が書いたものです。詳しく、しかも分かりやすく説明されているという評価を受けています。
1949(昭和24)年夏、亮作は神奈川県鎌倉市に居を移し、研究活動に専念しますが、1951(昭和26)年12月27日に急性肺炎で亡くなりました。享年41歳でした。
亮作は、ルバイヤートのすばらしさを多くの日本人に伝えてきた、そして今でも伝え続けている功労者でもあるといえると思います。